要約
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私が皆さんに教えた 教理は全て皆さんを 引き上げる為のものです 八万四千の教え方により とはそう言う意味です これが必要な人もいれば あれが必要な人もいる 甘やかしが必要な人や 進歩するために叱責が 必要な人もいます 引き上げるには少し 冷遇が必要な人もいます 温かい対応が必要な人も います そんな感じです 内面に沢山の「薬」が 必要な人もいます ゆっくり導かれる人も 外面と内面は 連動する必要があります すると人は進歩できます外見を崇拝するよう 強要してはいません 私の写真は たとえ写真であっても そこに私はいます 私はまだ生きている からです 分りますね 私はまだ生きています 私に関係するものには 私のエネルギーがあり 私の一部です だから私が内にいます そんなわけで時々 私が写真から 歩き出すのを見るのです だからです 私はどこにでもいます だから写真の中にいても 良いですよね 私は写真の中にただ 座っているのではなく その中にいるのです そう言う意味です そこにいるのです 写真の中にいないなら 私は「遍在」しません しますか? 私はどこにでもいるから 写真の中にもいます その通りです 私はまだ 生きているからです 高次のレベルに上っても 私に会えます 地獄に行っても 私に会えます 美しく綺麗な 写真の中では勿論です そこに座り「楽しんで」は いけませんかだから 時々 私の写真を身に付けると 奇跡的な 体験をするのです または私が与えたものを 食べると または私が 着たり触ったりその上に 座ったものには私の愛と エネルギーがあります 私はどこにでもいます 特に私の体がそれに 接触すると それには 当然私のエネルギーが もっとあります 皆が何を考えても 私に関係するものは 私に所属します 私が遍在すると言うなら 私は全宇宙のどこにでも 存在します 私の為に用意された 特別な場所は勿論です 例えば 私の写真は私が存在する所で いないのはあり得ません もっと特別な場所です 分かりますか 従って 時々 誰かが私が自宅に訪ねて 椅子に座ったと言うのを 聞くことがあったのです 皆さんの家に私の為に 用意された特別な場所が なくても行きます ましてや私の椅子に 座らない訳がないですだから時に外部の人は 知らないのです 彼らは私の写真を 身に付けるのは 偶像崇拝だと言います でも違います 私はまだ生きているので 全宇宙が私に 属しているのです 私の写真も含めてです 身に付けて構いません こう言います 「OK もう約束したわ」 保証済みです ね イエスには会ってません 既に他の境界に行って しまったかもしれません キリストも十字架の中に 存在するかもしれません でも彼に会ったことも なければ 個人的に 接触したこともないので 信仰は強くありません 俗世の人に 不可視なものを信じる ように強要できません 頭はそんなものだからで 見て知って触れるものは 存在すると分かります ここは存在の世界 物理的世界だからです それで抽象的な事を行い 想像するのは困難です 霊性の方向に行くには 頼れる物質的な 何かが必要なのです それで在世のマスターの 写真を身に付けると 顔も知らない 亡くなった人の写真を 身に付けるより 強い信仰心が 持てるのです 彼の本当の顔かどうか 皆さんが身に付けている 写真の中にいることに 彼が同意したかどうか 分かりません それで信仰していません皆さんが信仰しなければ 繋がるのは難しいです それだけです 双方が互いを 思いやらねば 繋がれないからです 分りますか 一方がこう考え 他方がああ考えたら 上手く行かないからです 例えば 仏陀とイエスが 皆さんを思いやっても 彼らが存在するかどうか 皆さんが知らなければ 空中に漂っているだけで 繋がりません だから上手く行きません でも私はまだここにいて 多くの人が奇跡的な 体験を数多くしています 彼らは既に知っていて 既に信じています 毎日私の顔を見て 私の声を聞いているので 明白なのです 私達の両方が お互いを想っています 私は常に皆を想い 皆は常に私を想ってます 両方が一つになります 1足す1は2で 繋がりが強くなります これで保障されます 私の写真を身に付ける のと他の写真を身に 付けるのとは違うのです 分りますか(はい) 他の写真とは 見ていないか 知らない人の写真です でも会ったことがあり 知っている人の写真は もっと価値があります より強い信頼を与えます それだけです でも不思議ですね真面目に修行する人 神と仏陀を完全に 信じる人は その人生は問題が少なく 病気も軽減されます たとえ病気になっても 気にしません 些細な事だと感じます だからと言って 病気を求めてはいません 私達 霊修行者は自然に 軽いのであって病気に なりたい訳ではないです 不幸にも病気になったら 受け入れます あまり深刻に考えません そうでしょう? 霊性へのカギを 持っていないなら 健康な体があっても あまり恩恵はありません 肉体的に強い人は 大勢います 彼らは血色が良く とても健康そうで 若く美しいです でも彼らの霊性は 非常に低いです 皆さんの言うことを 理解出来ません 霊性に関する事柄を 探究しようとしません 興味がないのです 面白いですね 多くの人は美しく 見えるのに口を開くと 魅力がありません そうですね? 雑で下らない話をします ですが霊修行者は なんとも言えず 美しく カリスマ性がありますちょっと前 あの女性が言った事が 嬉しい気分にさせました 少なくとも私は大勢の人 に影響を与えました 彼らの霊修行が 向上しました つまり進歩したのです 分かりますか 過去には非ベジから ビーガンに変わりました 例えばです 以前 皆は人々に何でも 教えられましたが今は ビーガンになるという 一本の真っすぐな道です 例えばです 多くの宗派が変わり 大勢の人がそう言います 余り良く知らないし 新聞は読みません でも人々が言うには 「マスターが台湾 (フォルモサ)に 来て以来 記事が 良くなって 少し似て…」 「マスターに少し 似て来た」そうです 昔は多くの寺院が 三宝に帰依したいなら 菜食を 食べるようにと 念を押しませんでした今は新聞にはっきり こう載せています 「三宝に帰依するには 月に数日ビーガンに ならねばならない」 そうですね? 前にはなかったことです 私が三宝に帰依した時 ビーガン食を食べる事は 誰も触れませんでした 新聞掲載は勿論ないです 当時私はビーガンでした でも他の人たちは ビーガンではなく誰も それに触れませんでしたでも私がこの法門を 修行すれば 一世で解脱できると 言ったら 彼らは驚きましたか 三宝に帰依するだけで 三つの悲惨な道から 解放されます すなわち地獄に行ったり 悪鬼や動物になる 運命ではなく幸運な人に 生まれ変わるでしょう 一方この法門を 修行するならビーガンで 日に二時間半瞑想し グループ瞑想に参加し 五戒を守らねば なりません そうすれば今生で 解脱できますが 彼らは信じません 不思議ですよねだから良く聞いて下さい 人々の内面は同じでも 人々が自分自身を 知るレベルは 様々です ですから多くの人々は 霊的に非常に無知です だからカルマを 信じないし 来世を信じません 輪廻も信じません 彼らの外見は 人間に見えますが 彼らの霊性のレベルは まだ初歩レベルです ですから誰もが教われる 訳ではありません例えば 私とあなたが 同じでも 放下のレベルは 違いますし 勇気の度合いも 違います 私がかつて道を探し 求めていた時 自分の命も含めて全てを 手放せました 例えば 仏陀が現れて「あなたが 今死ねば 即座に仏陀に してやろう」と言ったら すぐにそうします 私はそのレベルでした だから早かったのです たぶん長い間 無数の人生を通して 修行してきたのです それでこんな考えを持ち こんな行動をするのです それで私の霊的レベルは 当然このレベルです 一方で他の人達がいます 皆さんが懇願しても 道など考えません